한국어(준비중)



(講演記録)下関判決の再評価と今日的意味



2019年4月19日に衆議院議員会館で行われた、「慰安婦」問題解決オール連帯ネットワーク主催の院内集会における講演の反訳に加筆訂正した。





 下関判決の近下裁判長が退官されたので講演をお願いするという企画を聞いて楽しみにしていたのですが、近下さんの講演は実現せず、私にお鉢が回ってきてしまいました。「下関判決の今日的意義」というタイトルは主催者がつけたものです。今日的意義があるかどうかは皆さんにお考えいただくことにして、私はとりあえず提訴から27年もたってしまった関釜裁判の思い出話をしたいと思います。
 

下関で提訴

 この裁判は1992年12月、山口地裁下関支部で提訴しました。それまでに提起されていた数件の戦後補償裁判はすべて東京地裁に提訴されていました。当時、日本軍「慰安婦」問題も戦後補償問題もあまり知られておらず、ともかくそれを拡散したいという思いから、東京地裁以外で提訴することを考えました。
 また、東京地裁は裁判官の出世コースのため、有能な、その代わり最高裁しか見ていない裁判官が多く、地方にいくほど、良い裁判官と役に立たない裁判官がいて、良い裁判官にあたる確率が高いとも考えました。被害者の方々が連れてこられたとき全て下関を通っていたので、不法行為が行われた場所に裁判管轄があるということで下関支部に提訴しました。福岡や山口では東京の裁判と比べて報道のされ方が全く異なり、結果的にも良い裁判官に巡り合えて、成功したと言えます。
 第一回弁論の直前に国が東京地裁への移送を申立てました。証拠が東京にあるとか、統一的な認否が東京でないとできないという理由でした。これに対して支援の会が移送をしないでほしいという署名運動をしたところ短期間で1万人の署名が集まり、下関支部に提出しました。東京でないと統一的な認否ができないという理由もよく分からないし、原告が高齢で経済的に豊かではなく、下関なら釜山から船で来られるという点で原告が下関で提訴する利益が大きいと反論しました。結局、国が移送の申立を取り下げました。裁判所は移送を認めないという話を国に伝え、国は却下されるよりは取り下げたほうがいいと考えたのでしょう。

10人の原告

 3回に分けて、10人の原告が提訴しました。釜山で「女性の電話」という団体に申告してきた方が8人、太平洋戦争犠牲者光州遺族会の会員の方が2人です。そのうち元日本軍「慰安婦」被害者は台湾に連れて行かれた朴頭理(パク・トゥリ)さん、上海に連れていかれた河順女(ハ・スニョ)さんと李順徳(イ・スンドク)さんの3人です。貧しい生活の中で、皆、騙されて連れて行かれました。当時の年齢は16から19歳くらい。李順徳さんは慰安婦として働かされているとき軍靴で踏みつけられ、お腹に大きな傷跡があります。7人は勤労挺身隊の被害者で、富山の不二越の機械工場に連行された方が3人、沼津の東京麻糸が3人、名古屋の三菱重工が1人です。勤労挺身隊は最も若い人は12歳でした。小学校在学中です。他の方も13歳14歳。最年長でも16歳。当時の集合写真を見ても小学生の旅行のように見えるほど幼いです。このような子どもたちに戦争に行った大人の男がやっていた重労働を代わりにさせたのです。軍需工場に対する空襲が始まっており、日本の子供は疎開していました。どの工場も空襲で破壊され、彼女たちは逃げまどうことになります。三菱については、東南海地震で工場が倒壊し、勤労挺身隊の何人かは犠牲となってしまいました。  

慰謝料請求

 被告は日本国です。勤労挺身隊は企業で働いていましたが、この裁判は国だけを相手に訴訟をしました。請求額は元「慰安婦」の原告は1億1000万円。勤労挺身隊は3300万円。さらに元「慰安婦」の原告について、裁判を起こした後、当時の大臣が「慰安婦は公娼である」という発言をしたので、名誉毀損による損害賠償として100万円の請求を追加しました。その当時元「慰安婦」として名乗り出ていた人は合わせて10人くらいしかいなかったのですが、この請求は特定の原告を指して公娼と言ったわけではないという理由で棄却されました。  

弁護団

 原告代理人の弁護士は当初10人。翌年からもう1人加わって11人の弁護団になりました。弁護士、裁判官、検察官の間ではよく「何期ですか?」という会話をします。司法試験に合格した後、当時は2年間、司法修習生として研修所と現場で修習するのですが、戦後の一回目の修習から1期、2期と数えていくのです。弁護士は相手方がどんな大先生でも死力を尽くして闘う宿命にあるので、それほど期の上下ということを重要視しません。期が異なる弁護士たちが飲みに行っても割り勘にするのが普通です。しかし、検察官などでは期の上下というのは絶対的な問題のようです。
 なぜ期の話をするかというと、関釜裁判の最初の10人の弁護士は全員44期、翌年参加した1人は45期なのです。そして44期の修習期間は90年から92年までで、92年4月に弁護士登録したばかりです。この裁判の提訴が12月ですから弁護登録後8ヶ月そこそこの弁護士が10人集まって裁判を始めたことになります。登録初年度の弁護士はボスの鞄を持ってついて回る前座のような存在で、1人で法廷に行くこともないのが普通です。かなり無謀な弁護団だったのです。
 44期が司法研修所に入る前に、韓国籍朝鮮籍などの外国籍の修習希望者と学生運動で逮捕されたことのある修習希望者は最高裁判所に呼び出され、憲法と法律を守りますという誓約書を書かされたり法曹関係者の保証人を要求されたりしたのです。外国籍修習生の誓約書と保証人は1977年に金敬得弁護士が初めて韓国籍のまま司法修習生になったときから続いていた習慣のようです。これはおかしいということで、修習生の中で署名運動を始めました。修習生の95%以上が署名に協力してくれて、外国籍修習生の誓約書はその年で廃止されました。逮捕歴の方はその時には廃止されなかったのですが、その後どうなったのか分かりません。そもそも学生運動で逮捕されたことのある修習希望者というのがいなくなったのではないかと思います。
 実は、この署名運動の中心だった修習生のグループがそのまま関釜裁判の弁護団になったのです。修習中に韓国の被害者が弁護士を探していると言う話があり、研修所の中で集まって研究会を開いて訴状を書いていました。だから、この年に東京地裁に起こした光州千人訴訟も同じようなメンバーの弁護団なのですが、そのような準備の中で弁護団が作られたのです。

 

原告、支援者らの交流

 92年の提訴当時は現在とは違ってメディアを含めた日本社会は韓国の被害者に同情的でした。国の移送申立てに短期間で1万名の反対署名が集まったのもこのためです。もちろんヘイト攻撃とかヘイトデモなどは存在しませんでした。一審の裁判所の訴訟指揮も丁寧でした。弁護士になったばかりの弁護団をはらはらしてみているような感じでした。
 裁判の原告や支援者にはいろいろな人たちがいました。日本人と韓国人、日本軍「慰安婦」被害者と勤労挺身隊被害者、光州の人と釜山の人等々。勤労挺身隊被害者の苦しみのひとつは韓国で挺身隊というと日本軍「慰安婦」と誤解されることにあったのですから、原告たちの関係にも微妙なものがありました。最初はぎくしゃくすることも多かったのですが、弁論の度に福岡で自然料理店を営む支援の会の事務局長の花房さんの家に原告らが合宿して、そこに日本の支援者らが訪れ、交流しました。その中で原告らは少しずつ心を通わせて立場の違う被害者の苦しみを理解していきました。一審も終盤になると、勤労挺身隊被害者の釜山の朴〇〇さんが日本軍「慰安婦」被害者の光州の李順徳さんの車いすを押して裁判所に行くようになりました。原告の意識も大きく変わり、最初は手で顔を隠してうつむいていた朴頭理さんが胸を張って大声で意見を言うようになりました。
   

朴〇〇さんと杉山先生

 その朴〇〇さんですが、6年生の時の担任の先生に勧められて勤労挺身隊に入って富山の不二越で重労働させられた人です。4年生の時の担任はその先生ではなく、杉山先生という若い女性の先生で、生徒たちに大変慕われていて戦後韓国で同窓会に何度か呼ばれたのですが、一度も朴〇〇さんがこないので、ずっと気にかけていて、戦後帰郷した富山で日韓友好の運動を続けていました。杉山先生は報道で関釜裁判の原告の中に朴さんがいることに気づき、福岡に駆けつけて朴さんと再会しました。当時60代後半だった朴さんが小学4年生の顔に戻って先生と抱き合って再会した場面はメディアでも大きく報道され、この裁判運動の中でも印象深い出来事でした。杉山先生はその後、証人として皇民化教育や勤労挺身隊動員の実態について裁判所で証言してくださいました。
 このように、多くの人たちの出会いや交流のなかで、運動が進められていたっこともこの裁判の大きな特徴です。

 

「ハーストーリー」という映画

 最近韓国で「ハーストーリー」という映画が公開されました。関釜裁判を描いた実話という触れ込みで、支援の会の事務局長の花房さんなどは実名で登場するのですが、全く事実に反する製作者の妄想のような映画です。原告の被害事実はすべて公刊されている証言集から他の被害者の証言をつまみ食いしてつなぎ合わせたフィクションで、関釜裁判の原告らが体験したこととは全く違います。裁判の度に街頭や法廷で右翼からのヘイト攻撃を受けたとか、裁判所が冷ややかで敵対的な訴訟指揮をしたとか、原告らが旅館で宿泊を拒否されたなど、ありもしない事実が描かれています。朴〇〇さんは「不二越の勤労挺身隊に行った女性がレイプされて『慰安婦』にさせられた原告」として描かれ、杉山先生は「原告をだまして不二越に送りだした教師」で、法廷で土下座して謝罪したという話になっていました。映画ですので、ある程度のフィクションが入るのは仕方がないとしても、「実話」と銘打って人の人生を踏みにじるようなつくり話をすることは決して許されないと思います。
 韓国の中央日報にこの映画の監督のインタビュー記事が掲載されたのですが、その中に「福岡で撮影中に警察官から妨害され、スタッフが逮捕されて強制送還された」という話が出てくるのです。これが事実なら大変な問題です。後日、支援の会の花房さんが監督と話し合いをするというので、この話の真偽を必ず問いただしていただくようにお願いしました。その結果、「逮捕や強制送還は事実ではない」「タクシーの窓からカメラを突き出して撮影していたところ、交通警官から注意された」「その話を聞いた中央日報の記者が誇張して記事にした」という回答だったそうです。もちろん、記者が誇張したという話はにわかに信じる訳にはいきません。
 裁判の当時から、日本でも韓国でも名誉とかお金のために戦後補償問題に近づいてくる人がいて、問題を混乱させていました。今は日本では金にも名誉にもならないことがはっきりして、そのようなことはなくなりましたが、韓国ではまだそのような問題があるようです。
 みなさんの中にこの映画の日本での上映会を企画している方がいらっしゃるなら、是非やめていただきたいと思います。

国際法か憲法か

 さて、訴訟の中身についてお話ししましょう。
 研修所で議論したとき、この裁判は証拠調べに入らず一回で結審して、時効とか日韓請求権協定を理由に棄却されるのではないかと危惧しました。最終的に認められなくとも、簡単に棄却や却下することができない理屈をつくって、少なくとも原告が法廷で体験を語る機会は確保したいと議論しました。実は2000年頃までは国は日韓請求権協定の「完全かつ最終的に解決」とは国家の外交保護権を放棄しただけで、個人の請求権が消滅したのではないという解釈をとっていたし、そのころまでは時効を援用することもなかったので、私たちの危惧は杞憂だったのですが、それは後で知ったことです。当時すでに日韓請求権協定の解釈についての国会答弁が始まっていたのですが、インターネットがない時代で、国会議事録は図書館で読まねばならず、キーワード検索もできないので、情報を集めるのは簡単ではありませんでした。しかも当時提起されていた何件かの戦後補償裁判は日本でも韓国でも支援団体同士の関係はあまり良いものではなく、それを反映して弁護団の間の情報交換も不十分だったのです。
 関釜裁判の少し前に金学順さんの裁判など数件の戦後補償裁判が起こされていましたが、すべて国際法によって請求していました。個人も国際法の主体であって、直接国際法に基づいて賠償を請求することができるというものです。国際法には時効という考え方がないので、この法律構成なら時効の問題を回避できるからです。しかし、私達は別の方法で裁判を起こそうという議論をしました。アリの一穴で堤防が崩れることがあるなら、違う場所に穴を開けた方が崩れる可能性が高まると思ったのです。そこで国際法ではなく憲法で行こうと言う議論になりました。別に国際法の法律構成に反対するという趣旨ではなかったのですが、後に誤解され、国際法で提訴している事件の弁護士が関釜裁判の支援団体に関釜裁判の弁護団はおかしいのではないかと言ったことがあるそうです。
 国際法か憲法かというよりも、私達は訴訟で解決するのは無理があると思っていました。訴訟で問題を提起し、この問題を周知させる。各地で裁判を起こし、国会議員をその気にさせて立法をさせようと、そのような役割だと思っていました。  

道義的国家たるべき義務

 そこで考えたのが「道義的国家たるべき義務」という主張です。訴状では次のように説明しています。
① 1946年11月に日本国憲法が公布されたのは、前年に受諾したポツダム宣言の国民主義、民主主義、平和主義の諸要求が、帝国憲法の改正ないし新憲法の制定を必要としたからであり、その意味で、ポツダム宣言は日本国憲法の根本規範である。
② そのポツダム宣言は八項で「カイロ宣言の条項は遵守されるべく」と規定しているから、カイロ宣言もまた日本国憲法の根本規範である。
③ カイロ宣言は「第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋における全ての島を日本国からはく奪すること」、「満州、台湾および膨湖島のような日本国が清国人から盗取した全ての地域を中華民国に返還すること」、「日本国は、また、暴力および強欲により日本国が略奪した他のすべての地域から駆逐される」、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」と規定している
④ 日本国憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないやうにすることを決意」と規定しているが、これは右のような根本規範からみると、単なる人道主義的戦争否定ではなく、過去の日本による侵略戦争、植民地支配に対する反省の表明である。
⑤ 日本国憲法は、右の反省を踏まえ、「恒久平和を念願」し、それを実現する方法として戦争放棄(第九条)を規定するとともに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することにした。もっとも、「諸国民の公正と信義に信頼」するといっても、一方的な信頼はありえず、それは同時に侵略戦争、植民地支配を行ってきた日本が、それを反省し、平和を愛する諸国民から日本国の公正と信義が信頼されなければならないことを意味している。
⑥ そのためには、まず侵略戦争と植民地支配の被害者の被害の回復をすべき必要があり、かつ、それは義務である。そして、彼等の受けた被害からすれば被害の真の回復は単に損害を賠償すれば良いというものではなく、被害者に謝罪することが不可欠である……。
⑦ このような意味で、日本国憲法前文は政府に対し、侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償を具体的内容とする「道義的国家たるべき義務」を負わせているのである。
 つまり、憲法は侵略戦争や植民地支配の被害者への謝罪と賠償を行って平和を維持する道義的国家であることを日本政府に要求しているが、それは現在の義務なので時効や除斥期間、日韓請求権協定とは関係がないというわけです。実質は被害者への賠償立法が存在しないのは違憲であるという主張なのですが、1985年に「立法行為が違憲とされるのは、憲法の一義的な文言に反して不法だと分かっていてあえて立法するなど、容易に想像し難い例外的な場合のみである」という最高裁判決が出ていて、立法行為に対する違憲の主張はできなくなったと理解されていたので、あえて分かりにくい主張をして、立法不作為の違憲は予備的に主張したのです。韓国から原爆症の治療を求めて密航してきた孫振斗さんが1970年代に原爆手帳の交付を求める裁判を起こして最高裁で勝訴したのですが、その判決理由の中に、「国家的道義に照らしても原爆手帳を交付すべきである」と書かれていました。「道義的国家たるべき義務」という言葉はそこから借りたものです。よく道義的責任を主張したと誤解され、「ハーストーリー」でもそのように描かれていますが、道義的責任を主張しても訴訟の主張にはなりません。人道に反する罪を犯してはいけないのは人道的な義務にとどまらず法的な義務であるのと同じように、道義的国家たるべき法的義務があるという主張でした。  

一審の進行

 結局、この主張が立法不作為の主張と同じだということは裁判所にばれていて、判決ではこれは「言葉の魔術である」と書かれてしまいました。しかし、心配していたように一回で結審することもなく、各原告や証人の尋問も行われました。弁護団としては裁判官に原告の肉声を聞かせることが大切だと考えて、口頭弁論の度に原告の意見陳述を行いました。
 実は、判決の半年くらい前の進行協議で裁判官と話し合う機会があり、道義的国家たるべき義務ははじけすぎているから、立法不作為でまとめてみたらどうかと勧められました。しかし、私達は立法不作為にまとめさせて棄却するつもりだと思って断ってしまいました。裁判官は駆け出しの弁護士たちに助け船を出してくれたのだと思いますが、それも理解できず、大変申し訳なく思っています。

一審判決





 そして1998年に判決が出ました。メディアへの事前レクチャーでは、絶対に棄却されるから勝訴の予定稿は準備する必要がないと言いました。ところが、立法不作為で一部勝訴という結果でした。判決は積極的違憲立法と立法不作為は事情が異なると言いました。法律が憲法違反の場合には訴訟でその法律を適用しないという形で司法審査することができるが、立法不作為が違憲の場合には争いようがない。そうすると立法不作為の違憲を認めることは、積極的な立法行為の違憲を認めるよりずっと必要性が高いというのです。この判決の7年前の最高裁判決を真っ向から否定する判決を地裁が書くわけにはいかないため、このケースは最高裁判決のケースとは違うと言ったのです。
 その前提としてこの判決は被害事実をしっかりと認定しています。「慰安婦」制度は「徹底した女性差別、民族差別思想の現われであり、女性の人格の尊厳を根底から侵し、民族の誇りを踏みにじるものであって、しかも、決して過去の問題ではなく、現在においても克服すべき根源的人権問題である」と述べています。主文は、元「慰安婦」原告3人に対して一人30万円支払えというものでした。朴頭理さんは勝ったと聞いて喜んでいましたが、30万円と言ったら怒り出して私の胸を両手で突き飛ばしました。裁判官が退廷してしまったので代わりに弁護士を叩いたのだそうです。韓国ではこの金額は民族差別という報道までありました。しかし、30万円というのは彼女たちの被害そのものに対する賠償ではありません。日本軍「慰安婦」の問題が明らかになって「河野談話」で政府の関与を認めたのに、未だに彼女たちを救済する法律が作られない。3年あれば十分に法律は作れるから「河野談話」から3年経った日から判決の日まで立法が遅れたことの「待たせ賃」を払いなさいという趣旨でした。「救済立法をせよ」という抽象的な立法命令は三権分立を侵害することになるので、待たせ賃の支払いを命ずることで実質的に立法命令に近い判決をしたのです。ただ、この判決は勤労挺身隊原告については「特別立法が義務付けられるほどの被害ではない」として請求を棄却しました。日本軍「慰安婦」被害者と勤労挺身隊被害者を共同原告にした私たちにも責任があったと思います。

逆転敗訴

 結局、この判決が日本軍「慰安婦」に関する唯一の勝訴判決になってしまいました。その後、国が広島高裁に控訴しました。この頃から時代の風潮が変わり、裁判所が通訳と原告の打ち合わせも妨害したりしました。2000年の暮に逆転判決が出て、それから3年後に最高裁で上告が却下されました。  

その後の原告

 元日本軍「慰安婦」原告の河順女さんは裁判中に亡くなられ、朴頭理さんはその後ナヌムの家に行かれて活躍され、2006年に亡くなりました。李順徳さんは一昨年亡くなり、韓国の沢山の学生が弔問に訪れたそうです。 
 不二越の勤労挺身隊の原告3名は不二越に対して2007年に富山地裁で裁判を起こし、2011年に最高裁で敗訴しました。2012年に韓国の大法院で三菱や新日鉄の強制動員事件で差し戻し判決が出た後、2014年にソウルで不二越を提訴し、今年の1月に控訴審で勝訴しました。現在、大法院に係属中です。しかし原告の3人は去年までに亡くなられ、現在は遺族が訴訟を引き継いでいます。東京麻糸の3名の原告のうち2人亡くなり、1人はご健在ですが消息は分かりません。名古屋の三菱重工の勤労挺身隊員だった梁錦徳(ヤン・クムドク)さんは関釜裁判の後、すでに提訴されていた名古屋の訴訟の三菱重工を被告とする部分に途中から参加しました。この裁判は2008年に最高裁で敗訴しましたが、2013年に韓国の光州で訴訟を起こして勝訴し、高裁でも勝訴、去年の11月大法院判決で勝訴して1億2000万ウオンの賠償を確定させました。関釜裁判で3回、名古屋で3回、韓国でも3回、計9回目の裁判でやっと賠償判決を確定させたのです。先日も名古屋の集会に来られていました。原告のうち、お元気で闘っている方は、この方一人になってしまいました。  

日本には時間がない

 20年くらい前から、戦後補償問題の解決に残された時間は少ないと言ってきましたが、本当に時間がなくなってしまいました。最初は被害者に残された時間がないと言っていましたが、よく考えると日本に残された時間がないのです。被害者が納得しない解決や和解はありえません。被害者がいなくなったら、何が解決かという基準がなくなってしまうのです。  

HOMEへ